赤目無冠のぶろぐ

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帰ってきたニートの一日の作者。詳しくははじめにへ。

神の存在証明2~不可知論の逆襲

いわゆる神の存在証明について。当ブログの神の存在証明についての続き。
完成していないが、草稿として、自分の考え方を遺しておく。
結論から先に言うと、私は神の存在を証明することは不可能であり、
神はいるかいないかもわからない不定的な存在だと認識している。
いわゆる数学の背理法に近い方法「もし~だとすると矛盾が生じるから~ではない」を採用している。
尚、これは草稿なので、後に大幅に修正される可能性がある。また、留保するべき穴もかなり多い。


神を「人智を超越した存在」と定義し、これを前提として演繹的に考えていく。
さしあたって信仰としての神はその人次第であると考えているのでここでは割愛。
あくまでいわゆる哲学的に語られる神を対象としたい。

※留保
 定義できた時点で神の存在を認めてしまうことにならないだろうか?
 「『~の存在』の存在を考えている」という無限後退も懸念すべき
 厳密には存在論まで遡源して緻密に議論すべきかもしれない


     ↓

神は人智を超越している、すなわち、我々の知識や知恵の限界を超越した存在なので、
我々の知識や知恵を駆使することで神の存在の是非を問うことは不可能。

     ↓

もし存在することが何らかの形で説明できた場合、
前述の「人智を超越した存在」という定義に反してしまうため、論理的に矛盾。
人間の知識や知恵の範疇で言及できる時点で、人智を超越した存在にならない。
また、逆に存在しないことを説明できても同様に矛盾。

     ↓

ゆえに神は存在するかどうかさえ決定できない不定なものとするのが妥当。
我々はその神という存在に対して何もコメントできないはずである。

     ↓

「わずかでもコメントできるものは既に神ではない。」

※留保
 但し、この発想は無限後退の危険性を指摘されるかもしれない。
 「何もコメントできない」という発言もまたコメントに含まれるかもしれないからだ。

さもなくばコメントできてしまった時点で、自分は人ではなくなる。
自分が人であることを否定しない限り、前述の定義との矛盾から脱却できないからである。

     ↓

注意して欲しいのは、それは神への畏怖心でもないし、まして忠誠心、信仰心でもない。
畏怖を抱く時点で、「畏怖を抱くべき存在」ということを人智内で判断しており、
前述の定義に反してしまうからである。
まして忠誠心や信仰心はもっての他である。

     ↓

つまるところ、とうの昔に確かめられないと設定したものを、また掘り返しているにすぎない
昔に設定した大切なことを都合よく忘れて、
もしかしたら確かめられるかもしれないと未だに信じているのである。
実のところ、この議論に本質的意味など最初からなかったのだろう。(完)



追記
 wikiを見る限り、この考え方は不可知論に近い(wikiの不可知論)。
 引用すると、

「神はいるともいないとも言えないのだ」とする公平な中立的不可知論