赤目無冠のぶろぐ

アニメ要約・批評、仮想通貨(ビットコイン、モナコイン)、将棋・麻雀、音楽(作曲、DTM、ベース)、思想など

帰ってきたニートの一日の作者。詳しくははじめにへ。

「千と千尋の神隠し」の主張あれこれ

前回、ジブリのことをボロクソに言ってしまったが、まったく無意味なものとは思っていない。
含みのある話もあるので、ある程度、考えさせられる部分も入っている。
というわけで、今回はその弁解(笑)でもしておく。

千と千尋の神隠し」というアニメについて軽く触れておく。
本格的な文を書こうかと思ったこともあるのだが、他にやりたいことがたくさんあるので、今日だけで終わらせておく。

本作は、たしかダウンタウンの松本人志が「分からん」と言っていたアニメである(彼もまたジブリが全般的に苦手な人)。
たしかに彼でなくても「分からん」という要素は多い。
少なくとも「分かりにくい」とは言える。その点では同意できる。

特によく話題になる「カオナシは千尋のことが好き」という問題は、はっきりとした言及はなく、描写だけである。
(まぁもともとアニメ自体、描写だけで主張するものだから、
 話さなくても動作だけで理解できるという、一定の読解力が前提になっているわけだが。)

いろいろな論を展開できると思うが、本作は暴走する現代の資本主義を批判しているのではないかと思っている。

冒頭で出てくる両親はたしか途中で豚になってしまう(うろ覚えですまない)。
彼らは欲望に基づいた獣のような行動をとるだけであり、俗物的な世界を知っている大人として描かれている。
要するに金儲けして欲しいものだけを手に入れるのがすべてだという、
いわゆる資本主義的な考えに組み込まれた大人になっている。
ここから考えるに、ジブリは基本、左翼的で社会主義的な傾向がある。

途中の汚い風呂だかは資本主義の暴走によってもたらされた公害の象徴に見える。
全体的に宮崎の描き方は潔癖であり、現実は汚いという忌避感が含まれている。
何らかのアンチテーゼや皮肉を風刺しているのだと思う。

だが、面白いことに、千尋だけはそれになびかない。
だからカオナシがお金を出して彼女を買収しようとしても、彼女はそれを否定する。
それはまだ彼女が子供であり、「金がすべて」という価値観に毒されていない子だからであろう。

これは個人的な考察だが、彼女が元の世界に戻れたのは、まだ欲望だけで生きてしまう人間ではないから。
だからラストで豚になった親を選ぶシーンで「ここにはいない」という結論に辿り着く。
並の人間の対局観なら答えがあるという前提で血眼になって追ってしまう。
それは現代資本主義に組み込まれた人間は、欲望に基づいた行動しかできないからである。

だが、子供は利害関係だけで動かない。
大人の社会という仕組みにまだ組み込まれていないため、自分の立場が損か得かという判断でなびかない。
ある意味でもっとも嫉妬すべき存在でもある。だから婆さんも面白くなさそうに帰ることを認める。

あの局面は社会人ならどんな人間も選んでしまう。
おそらく「いない」と言えるのは今言った子供、
それとすべてを手に入れて倫理的にも超越した神のような年老いた資産家(宗派はプロテスタントが望ましい)、
後は落ちることを自ら望んだ私のような仙人タイプのニートぐらいだろう。
残りの人間はすべて必死になって答えを探す。
残りは目標を定めて探し続けるという20世紀のガンに組み込まれた機械仕掛けの人間だからである。
誰もその中から探せとは一言も言っていないというのに!

というわけで、宮崎は確固たる主張を随所に入れている。
ただ、分かったとしても、その主張が潔癖かつ左翼的で好きではない。
理想を追求するうえでは最善手を知っている人間だが、実践的には選べない変化をあえて選ぶ人間である。
ただそれだけである。
(ただそれだけという割には、けっこう重要なことをいくつも述べた気もするが)

追記:大きな赤ん坊がいたが、あれはおそらく現代の引き篭りの風刺。
 外の世界に強制的に行くことで、面白いものが外にたくさんあると分かり、見事に自立した。
 だいたいの場合、物語はAだったものがBになるという変化や成長なので、それだけ読めば意義は簡単に汲める。

追記2:松本人志氏がジブリのことを理解できないのは、彼が割と俗っぽいものが多い地域で育ったからだろう。
 たしかに彼は潔癖な考え方をするタイプではない。生い立ちを考えると、そういうのは苦手だと思う。