赤目無冠のぶろぐ

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帰ってきたニートの一日の作者。詳しくははじめにへ。

2008年冬アニメ『true tears』の考察・感想

・眞一郎・比呂美・乃絵の三角関係の変遷

 眞一郎の気持ちの変化を単純化すると、比呂美→乃絵→比呂美となる。
 作中の出来事と眞一郎の心境を彼視点で簡単にまとめると、以下のような流れになる。

 1話:「君の涙を僕は拭いたいと思う」と言ったり、比呂美にどう接すればいいか悩んでいる中、乃絵に出会う
    ↓
 3話:比呂美が純のことが好きだと言っているのを聞いてしまう
    ↓
 5話:純に交換条件(眞一郎が乃絵と付き合う代わりに純が比呂美と付き合うという条件)を提示してしまう
    ↓
 6話:比呂美が異母兄妹である可能性が浮上し、混乱する
    ↓
 7話:乃絵に告白し、はっきりとした恋愛感情を互いに確認し合う
    ↓
 8話:乃絵のおかげで絵本の続きを描けるようになる(キスされる)
    ↓
 9話:バイク事故がきっかけで、比呂美への恋愛感情を再確認する。
    乃絵もその瞬間を見てしまい、「あなたが飛ぶ所はここじゃない」と悟り、疎遠になっていく。
    一方、比呂美は、異母兄妹説が否定されたので、眞一郎の母との関係が改善する。
    ↓
 10話:「俺…全部ちゃんとするから」と比呂美に言う。ここで本作が比呂美ルートであることがはっきりする。
    (すべてを悟り、踊りの稽古場から黙って立ち去る乃絵が痛々しい)
    ↓
 11話:比呂美の家に通うようになる(キスされる)。
    しかし乃絵との関係を引きずっているので「俺、何もちゃんとしてないし」とも思う。
    ↓
 13話:乃絵に絵本のオチを見せ、「俺、比呂美が好きだ」と言うことで、彼女との関係にけじめをつける。
    一方で、「でも絵本が描けたのは乃絵がいたからだ」「お前を見てると心が震える」とも言う。

 結局、恋愛は比呂美だったが、自分の夢(仕事)のきっかけを与えたのは乃絵だった、といったところか。
 乃絵は物語を正しい方向(≒眞一郎&比呂美)に導く案内役に過ぎなかったようである。

 とはいえ、乃絵自身も、眞一郎との出会いと別れを通じて、涙を取り戻している。
 また、友達ができて、他人と素直に接することができるようになっている。
 それを考えると、彼女が彼と別れるのは最善の選択だった。別れなければ永遠に泣けないのだから。
 乃絵を中心にして見ると、本作は乃絵が「真実の涙」を取り戻すまでの物語(≒乃絵の成長物語)とも言える。

 ※余談だが、筆者は当初、乃絵は生きる者を正しい方向に導く死んだ幽霊だと思っていた。
  大事にしていた鶏が死んでも涙1つ見せずに「私…涙、あげちゃったから」と言うようなミステリアスな子だったので、
  放送当時(特に第1話終了時)は既に死んでいる幽霊のように見えた。
  結果としては間違った解釈だったが、そういう解釈も面白いと思うし、それぐらい初期の乃絵の言動には生活感がなかった。


・(乃絵にとって)鶏は何を象徴しているのか?

 簡単に言うと、雷轟丸=理想=眞一郎、じべた=現実=比呂美であろう。

 このことは乃絵が眞一郎を「雷轟丸みたいだった」と評したり(5話)、
 比呂美に嫌っていたじべたと同じ食べ物(天空の食事以外のもの)を強要したり(7話)しているシーンを見れば分かる。

 しかし雷轟丸は既に死んでいる鶏なので、所詮は「理想」であり、「現実」ではない。
 そもそも鶏は一般の鳥のように長く飛べる鳥ではないので、「飛べる」という発想が既におかしい。
 つまり、彼女は「現実」を直視せずに、「理想」ばかり語っている。
 おそらく祖母の死以来、そういう状態なのだろう。
 精神を保つために、「理想」を心の中に作り、受け入れられない「現実」を見ないようにしているわけである。

 だがそんな彼女も9話で「あなたが飛ぶ所はここじゃない」と悟り、悩むようになる。
 その際、眞一郎に「自分がただの鶏だってことが分かってしまうのが怖いんだ」
 「雷轟丸は本当は最初から自分は飛べないって知ってるんだよ」と指摘されている。
 このセリフは乃絵のことを表現しているともいえるし、眞一郎のことを表現しているともいえる。
 ここで彼女は「現実」から逃避して、浮世離れした「理想」を追っている自分自身に気づく。

 そして苦悩の末、10話あたりから、拒絶していたじべたに赤い実をやるようになる。
 彼女にとって赤い実は天空の食事なので、本来は雷轟丸にしかやらないものである。
 それをじべたにもやるということは、嫌っていた「現実」を少しだけ見直すようになったということである。
 その上、眞一郎とけじめをつけるために、踊りの稽古場から自ら立ち去っている。
 周りの踊りを拍手で止めてしまっている点では迷惑な存在だが、
 自分の気持ちを早期にはっきりさせている点では、男の眞一郎よりも決断力がある。
 このあたりから彼女の心は「理想」の雷轟丸から「現実」のじべたに向かう。

 しかし、祖母のトラウマがあるので、「現実」を直視することは、彼女にとってなかなかできないことでもある。
 それが11話の家出と「この地上には苦しいことが、辛いことがたくさんあるわ。飛びたい。すべてから逃れて、自由に羽ばたきたい。
 そう願った方がきっと楽なのよ、じべた。じべた、私が飛ばせてあげる。」というセリフに繋がる。
 そして12話で「自分で決めなきゃ泣けない」と気づき、
 「飛べないあなたを軽蔑してたのは、飛べない私と同じだと思ったから」と言い、
 「でも違った。あなたは飛ばないことを選んでたの。」「それは飛ぶことと同じ」と悟る。
 実は自分自身もじべたのような平凡な存在に過ぎないことに気づいたわけだ。
 同時に、平凡であっても、普通に生きる方がよっぽどまともであることにも気づいている。

 こうした様々な葛藤を経て、13話で彼女はようやく「現実」を受け入れ、
 「眞一郎が私が飛べるって信じてくれる。それが私の翼。」と言う。
 そして眞一郎に頼らずに、一人で海辺を歩いていく。

 この話を見ると、筆者は1997年の『新世紀エヴァンゲリオン』の劇場版を思い出す。
 あの話も最初は生命のスープという人類すべてが溶け合っている状態に向かうが、
 最後で主人公が個が存在する元の世界(≒現実)を望むことで、物語が収束する。
 つまり雷轟丸に捉われていた乃絵がじべたと向き合うようになるこの話と同じような構造になっている。
 その意味で、『新世紀エヴァンゲリオン』も『true tears』も、「理想」と決別して「現実」を受け入れる話である。


・7話のじべたの共食い(から揚げ)
  共食い(から揚げ)は、近親相姦(異母兄弟かもしれない眞一郎と比呂美の禁断の恋愛)を暗喩しているのだろう。
  この時の乃絵は比呂美とじべたを重ねていたのだから。

・10話の酒蔵における比呂美と眞一郎の父の会話
  ここは意味深な発言が多い。しかも眞一郎の父が視線をそらしている。
  個人的には「やっぱり比呂美は眞一郎の異母兄妹なのでは?」と疑ってしまう。誤解されやすい場面である。


・自論~眞一郎・比呂美・乃絵の三角関係は眞一郎の父・眞一郎の母・比呂美の母の三角関係と同義

 眞一郎の母と比呂美は、他の女(それぞれ比呂美の母、乃絵)に嫉妬したことがあるという点で、似ている。
 実際、8話の後半で比呂美が眞一郎の母のような自分自身に気づき、自己嫌悪に陥っている。
 また、眞一郎の母が、9話の後半で比呂美と同じような音楽を聴いていたことを話したり、
 13話で「待つのって、体力いるのよね」と比呂美に共感したりしている。
 そうした行動を通じて、彼女はかつての自分自身と比呂美を重ねているのだろう。
 つまり、この2人は前半では対立していたが、実は似た者同士である。

 この関係に基づいて考えると、眞一郎は比呂美と乃絵の件で悩んでいる立場なので、
 眞一郎の母と比呂美の母の件で悩んだ(と予想される)眞一郎の父に近い。
 そして乃絵は比呂美の恋敵なので、眞一郎の母の恋敵に該当する比呂美の母に近い。
 まとめると、眞一郎・比呂美・乃絵の三角関係は眞一郎の父・眞一郎の母・比呂美の母の三角関係と同義だということである。
 要するに、上の世代でやっていたドロドロした三角関係を下の世代も続けているわけだ。


・眞一郎と比呂美はプラトニックな関係か?

 TT湯浅比呂美研究室では、眞一郎と比呂美は11話で既に肉体関係を伴う関係になっていたと考察している。
 たしかに女性が男性を自分の部屋に入れることは、体を許すことに等しいという話はよく聞く。
 しかし、いささか深読みしすぎな気がする。
 それに11話で体を許したと解釈すると、13話で比呂美が「いいよ」と誘惑したり、開脚運動したりしていたことと矛盾する。
 また、乃絵との関係がはっきりしていない状況で、体を許すとも考えにくい。
 深読みせずに直線的に考えると性的な関係は13話以降と考えてよいのではなかろうか。
 いずれにせよ、はっきりとした答えが作中にあるわけではないので、この点に関しては各自で想像するしかない。