将来の夢などなくていい
人間、生きていく以上、将来の夢が何か考えなくてはならない時がある。
たとえば卒業文集で書かされる。進路調査や就職活動などで書かされることもある。
そういう時に多くの人が自分は何になりたいのか悩む。
しかし、私は将来の夢などなくていいと思う。
そもそも将来の夢を考えることは権利であり、義務ではない。
たとえば家業を継がないといけない人は、もう道が決められているため、夢を持つことさえできない。
もちろん、実践的に生きていくうえでは、「将来の夢」とやらは必要である。
面接などで、「あなたの夢は?」と聞かれて「ない」と答えてしまってはあんまりだからである。
これでは会話が途切れてしまうし、愛想がない。
また、現実として、何もしないで生きていくことはできない。
最終的には、ほとんどの人が、何らかの職に就いてメシを食っていくことになるのだから。
そういう実践的な観点に立つと、「夢がないのはまずいよ」とフォローするのが自然な対応であろう。
しかし、本音としては「夢などクソくらえ」と思っておいて構わない。少なくとも私は同意する。
本音では大多数が将来の夢などバカらしいと思っているはずだ。そうでなくても先の見えない時代なのだから。
私は幼稚園の頃からそう思っていた。
幼稚園の頃、私は「将来の夢」という欄に「パン屋さん」と書いた。
動機は単純で、パン屋なら最悪、そのパンをメシにすれば生きていけると思ったからである。
それにそれほど悪い印象ではない。叩かれるような職業ではない。
つまり子供ながらに、「大人にどう思われるか」ということを考えたうえで、「パン屋」と答えていたわけである。
さすがに「ない」というのはまずいだろうと、空気を読んでいたわけだ。
一般的には、男の子は「プロスポーツ選手」などを答えているようだが、
私は家でゴロゴロしている方がはるかに社会厚生が高いことを幼稚園の時点で見抜いていたので、無理に答える必要はないと判断した。
それに本当に全員が「プロスポーツ選手」と本音で答えているのだろうか。
単なるファッション感覚で答えている男も必ずいると思う。
「強そうだからカッコいい」とか「そう言っておけばモテそう」とか、そういうステータスを意識して答えている奴も少しはいるはずだ。
勝手な行動が多い私でさえ空気を読んで「パン屋」と答えたのだから、相手にどう思われるかを意識して答えている人もいるだろう。
ついでに言えば、学生時代、何かに夢中になっていなくてはならないという風潮が苦手だった。
明らかに何もしないですむ状態の方が裕福なのに、なぜ自分から苦を選ぶのか。あなたはマゾなのか?
部活の選択自体、既に妥協の始まりである。奴隷になることに慣れる訓練である。
私は本音では帰宅部が最強だと思う。実はみんなも思っているだろう。
家でゆっくり過ごし、たまに庭の植木をいじる。そんな余裕が豊かさの象徴だ。
さらに言えば、大人も好きで働いているわけではない。
何度も辞めたいと思い、馬鹿馬鹿しさを感じながら、惰性で動いている奴隷である。特に雇われはそうであろう。
その証拠に、宝くじに並んでいる人が異常に多い。年末になると新橋や有楽町などでよく見かける。
一獲千金でさっさとリタイヤしたい人が多いということだろう。
実際、アメリカの宝くじの高額当選者は、しばしば仕事を辞める。
所詮、その程度の労働だったということだ。
本当に信念を持って続けられる仕事なら、たとえバイト程度の時給であっても辞めないはずだ。
しかし辞めるということは「金のため、生きていくため」というのが働く動機のほとんどだったということを暗に示している。
というわけで、ほとんどは空気を読んでいるだけで、夢などクソくらえであろう。
私もゴロゴロしたい、メシを食いたい、ウンコしたい、などの原始的な欲求を除けば、夢などない。
それでいいと真剣に思っている。
そもそも目標を設定して成長するという姿勢は単なる20世紀以降の国家戦略であり、個人の考えではないのではなかろうか。
成長は社会を豊かにするうえで必要な手段だが、その成長で苦しんでいては意味がない。
どうも現代社会を見ているとその手段が目的と化して、多くのリーマンが疲弊している。
別に死なない程度にぶらぶらしていても、欲求に忠実であるという意味では自然なので、全国のニートやフリーターは自信を持って欲しい。
今や若者の多くが非正規になる時代。もはやゴミクズの方が冗談なしにマジョリティだ。
それに前述したとおり、本来、夢を持つことは権利である。
戦時中の極限状態に置かれた人達は夢を持つ暇さえなかった。
そのことを考えれば夢について悩むことの何と贅沢なことか!
悩むぐらいなら「将来の夢などなくていいや」でくたばって結構である。