赤目無冠のぶろぐ

アニメ要約・批評、仮想通貨(ビットコイン、モナコイン)、将棋・麻雀、音楽(作曲、DTM、ベース)、思想など

帰ってきたニートの一日の作者。詳しくははじめにへ。

「私モテ」を見て~カミングアウトされる「人間みんな同じ」というテーマ

最近、「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」というアニメ(以下「私モテ」と省略)を見ていて思ったのは、
オタクという者は意外とミーハー(流行に流され易い人)な生き物だということ。
彼らは流行に振り回されない自分らしさというものを追求したいようだが、実際には彼らもまた振り回されている。
その証拠に「私モテ」のオタク趣味を持つ主人公は、友達がいる一人ぼっちではないグループを常に意識しており、
深層心理ではそのような友達がたくさんいる人間になることを渇望しているように見える。

かつてデュルケムというフランスの社会学者が、我々は知らず知らずのうちに集団社会のしきたりに翻弄されているという
全体主義的な発想を提唱したことがあるが、これは現代の大衆消費社会をうまく説明している。
つまりどんな人間も社会の影響を受ける以上、多かれ少なかれ流され易いわけだ。
自分で考えているようでも、実は社会(たとえばメディア・広告)が個人を縛り続けている。
程度の差があるだけで、完全に流されない人間は事実上いない。

それに考えてみればオタクも流行を意識しないとオタクを維持できない。
たとえばアニメオタクだったら常に最新のアニメが何か四半期ごとにチェックし、何が話題になるかを読まないといけない。
もともとアニメ自体、漫画やゲームを買わせるための広告のような役割も果たしているので、
それにハマるという行為が既に流行に乗るようなものである。
その意味で、実はメディアに一番流され易い性格を有しているのがオタクとさえ言える。

この文脈でいくと、
現代の大衆消費社会に本当の意味で対立しているのは、何に対しても興味を示さない仙人のような世捨て人だけで、
後はほとんど似たような存在になる。
不良もヤンキーもコギャルもスポーツマンも音楽好きも、流行を意識し、ある同調性を持たないと自分自身を保てないという意味では、
オタクとほとんど同じことになる。
要するに元を辿れば同じ人間に過ぎない。

その意味で、「私モテ」は誰もが最初は何の変哲もない一人ぼっちの凡人だったということを私達に教えようとしている。
主人公だけが特殊なわけではない。
原始的には誰しもが一人ぼっちであり、一人ぼっちのままでいることを怖がる。
ある2ちゃんねらーは「このアニメが今までの人生で『人間みんな同じ』なんだって一番分からせてくれたわ」とさえ言っている。
彼の言葉を借りれば、「私モテ」は私達が深層心理で気づきかけていた「人間みんな同じ」というテーマを再定義したようなものだろう。

以前、えむえむっ!の原作と漫画の対応(漫画版7巻のまとめ)という記事を書いた際、
負の側面を赤裸々にカミングアウトするのが昨今の流れだと書いたが、本作もその潮流を受け継いでいると言える。
昔はカッコ悪いところを隠して美化するのがエンターテインメントの役割だったが、
昨今の作品はダメなところをそのまま押し出している(多少オブラートに包んだ表現にしているところもあるが)。
こういうことができるようになったのは時代の変化なのだろう。
これは匿名であることが許されるインターネットの影響もあるかもしれない。
この流れは今後どのような想像力を生み出すのだろうか。今後に注目していきたい。