赤目無冠のぶろぐ

アニメ要約・批評、仮想通貨(ビットコイン、モナコイン)、将棋・麻雀、音楽(作曲、DTM、ベース)、思想など

帰ってきたニートの一日の作者。詳しくははじめにへ。

東浩紀の『動物化するポストモダン』の要約・批判的な考察

東浩紀による『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』(講談社、2001年)を要約し、批判的に考察していきたい

・要約・考察の動機:山川賢一さん(*1)が本書を痛烈に批判していたから→本書を徹底検証してみたくなったから

・私の考察は※がついているところ

  *1…日本の文芸評論家。wikipediatwitterを参照。



第一章 オタクたちの疑似日本

1――オタク系文化とは何か

・オタク系文化は、大人も消費者で、決してマイナーではない。ネット文化の基礎でもある。
 →「日本文化の現状についてまじめに考えようとするならば、オタク系文化の検討は避けて通ることができない」

・しかし、1988~89年に宮崎勤が起こした連続幼女誘拐殺人事件のせいで、オタク(*1)という言葉が否定的なものに
 →オタク系文化を論じることが困難に

  *1…1983年に中森明夫によって初めて用いられた言葉。『おたくの本』参照。

・「出自的にはサブカルチャーの世界から遠い筆者は~一部から反発を受けてきた」

※反発を受けるのは的外れな作品考察だけであら削りなことを語っているからであり、出自は関係ない。
 この点については「東浩紀の批評が嫌われるわけ」などを読むとよく分かる。
 このあたりを東さん(批評家たち)は誤解している。
 また、いい年してカフェで『AIR』を実況するような人がサブカルチャーの世界から遠いとは思えない(苦笑)。
 本当に遠い人なら興味がないはずなので、そもそも批評しようと思わないはずだ。

・本書の企図は、オタク系文化を批評しやすい状況を作り出すこと。
 オタク系文化の変遷と社会との関連を取り出すこと。

・「オタク系文化の構造には私たちの時代(ポストモダン)の本質がきわめてよく現れている」

※是非はともかく(個人的には間違っていると思うが)、これが本書の基本となる思想

・世代は以下の3つに分かれる。本書は第三世代に注目している。
  第一世代:1960年前後生まれ。『ヤマト』や『ガンダム』を10代で見た世代。
  第二世代:1970年前後生まれ。先行世代が作り上げた文化を享受した世代。
  第三世代:1980年前後生まれ。『エヴァンゲリオン』ブームの時に中高生だった世代。


2――オタクたちの疑似日本

ポストモダン:近代(モダン)の後(ポスト)に来るもの。本書では1970年代以降の文化的世界とする。

・オタク系文化は日本的なイメージを持っている。
 しかし、その影響が国外に及んでいることを考えると、日本独自のものとは言い難い。

※本当に国外に及んでいるのだろうか? 実際にはごく一部の海外のマニアが礼賛しているだけではなかろうか?

・オタク系文化の源流は実はアメリカ(ディズニーアニメなど)。
 オタクと日本は連続ではなく、間にアメリカが挟まっている。

・「オタク系文化の根底には、敗戦でいちど古き良き日本が滅びたあと、
  アメリカ産の材料でふたたび疑似的な日本を作り上げようとする複雑な欲望が潜んでいる」

・ゆえに日本の伝統を失っているため、オタク系文化をおぞましいものとして拒絶する人もいる

※たしかに第二次世界大戦における日本の敗戦とアメリカの占領を考えると、アメリカの影響は確実にある。
 また、戦前から漫画界の巨匠・手塚治虫がディズニー映画を好んでいた点でも説得的な論であろう。
 しかし、すべてがアメリカのものと言えるかは疑問である。

 なお、山川賢一さんがツイッターで「アニメに鬼とか巫女さんとか出てくるのは敗戦によって失われたかつて日本の伝統を
 擬似的に復活させたいとオタクが望んでいるからだ!というのがそこでの東さんの論旨なんだけど、わざわざ「擬似的」とか
 いうのがわからないんだよね。「日本の伝統がアニメに取り入れられている」ではなぜいけないのか。」
 (https://twitter.com/shinkai35/status/660782679336484869
 と述べているが、正確には「超能力を使ったりサイボーグになったり宇宙船に乗ったりする」巫女である(24ページ参照)。
 こうした巫女は明らかに普通の巫女とは違うものであり、日本の伝統だけでは説明できない。
 だからこそ東さんは一見すると日本的なものだが、本当はそうではないという意味で、
 「疑似的な日本」という言葉を用いたわけである。
 たしかに山川さんの言う通り、オタク系文化が敗戦のせいで「完全に」断絶しているとは私も思えないが、
 改めてよく文章を読んでみると彼も誤読している。

・1980年代にポストモダニズムポストモダンの一部)がジャーナリスティックに流行し始める。
 背景に、バブルだった日本のナルシシズムあり。近代=西洋、ポストモダン=日本で、日本が最先端と考えた。

 フランスの哲学者、アレクサンドル・コジェーヴは、アメリカ化=動物化ではなく日本化=スノッブ化を予測していた。
 これはアメリカへの屈折を表面的には忘れることができる内容なので、日本で好まれた。

※どうしてもアメリカ(西洋)との対比に拘りたいらしい。
 実際のところ、下の世代はアメリカと戦争をして負けたことを少しずつ忘れていくため、
 強い挫折感がいつまでも残るとは考えにくい。その意味で、こじつけているだけのような気がする。

・1990年代のバブル崩壊で日本が最先端という浮遊感が消滅するも、
 オタク系文化はそのあたりで一般に知られるようになり、幻想として生き続ける

バブル崩壊で価値観が変容した点は私も多少は認める。
 景気の良し悪しは物質的な現象なのでデータではっきり示せるし、物が十分にあるかどうかは人生観に直結するからだ。

・オタク系文化の存在は、敗戦(弱さ)とアメリカの影響を見せつけるおぞましいものであり、
 同時に、日本が最先端だという幻想を与えてくれるフェティシュ(ナルシシズム)でもある。
 オタク系文化への過剰な敵意と過剰な賞賛はここから生じている。
 根底にアメリカあり。「アメリカ産の材料で作られた疑似日本」と批評できる。

※ここもアメリカとの政治的な関係と日本の文化をこじつけることで、カッコつけているだけだろう(苦笑)。
 一貫性のある文にしたかったのだろうが、議論の構図に拘りすぎている。

 「過剰な敵意」に関しては、単純にオタク系文化を好む者が生理的に気持ち悪いという
 差別意識から生じているだけで、いちいち批判者が敗戦やアメリカまで想像しているとは思えない。
 同様に「過剰な賞賛」も単にその文化が好きなだけで、いちいちオタクが日本が最先端だと意識しているとも思えない。

 たしかに敗戦後、アメリカの影響を受けて、独自性を失いかけた面が日本文化の随所にあるとは言えそうだが、
 オタク系への敵意や賞賛に関しては単純に生理的・本能的な判断によるものだと考えるべきだ。

 結局、こういう批評はこじつけを繰り返しているだけで意味がない。
 この点に関してはこのブログの「社会学やら批評やらが嫌いな理由~その限界について」を参照して欲しい。



第二章 データベース的動物

1――オタクとポストモダン

・オタク系文化のポストモダン的な特徴その1:
  二次創作が多く、オリジナルとの区別が曖昧である。
  フランスのジャン・ボードリヤールによると、オリジナルとコピーの区別が消え、「シミュラークル」という中間形態が増える。

・その2:
  虚構重視である。
  フランスの哲学者、ジャン・フランソワ・リオタールによると、「大きな物語の凋落」である。

※虚構重視なのは別にいつの時代も変わらないのではなかろうか。
 架空の話を楽しむ際にわざわざ現実との関連性を深く考えている人がいるとは思えないからだ。
 いたとしても、一部の専門家や彼らのような評論家(気どりの者)だけであろう。
 また、ポストモダンのみを特別視しすぎていて、近代以前との区別が弱い。近代の説明が不十分である。
 さらに言えば、ジャン・ボードリヤールとジャン・フランソワ・リオタールは
 ソーカル事件(詳細はwikipediaのソーカル事件を参照)で失墜した人たちなので、参考にならない。


2――物語消費

大塚英志の『物語消費論』の要約

 商品そのものが消費されるのではない。それを通じて背後にある「大きな物語」(設定や世界観)が消費される。
 しかし、実際には「大きな物語」(設定や世界観)を直接売ることはできないため、
 その断片である「小さな物語」を見せかけに消費してもらう。
 こうした消費を「物語消費」と名付けたい。

 しかし、この考え方は危うい面もある。
 「大きな物語」全体を把握してしまえば、自分で「小さな物語」を自由に作り出せる(二次創作できる)からだ。
 そうなると本物と偽物の区別がつかなくなってしまう。

※グッズ消費論としては鋭い。我々は実のところグッズそのものはどうでもよくて、
 そこに描かれている作品の世界観にひかれるわけだ。
 たとえばクリアファイルは安物だが、それにディズニーの絵をつければ、それだけで高値で売れる。
 この場合、真に評価されているのはクリアファイル自体ではなく、それに付随しているディズニー作品の世界観である。

・まとめると、「大きな物語」(設定や世界観)が真に評価されるものだが、
 実際にはその断片である「小さな物語」が見せかけの作品として売られる
 →二次創作が増え、本物と偽物の区別がつかなくなる→シミュラークルが氾濫してしまう

・近代の世界像(ツリー・モデル)
  表層に「小さな物語」があり、深層に「大きな物語」(設定や世界観)がある。
  表層は深層に決定される。私は物語を通して決定される。
  ↓
 ポストモダンの世界像(データベース・モデル)
  典型例はインターネット。深層に「大きな物語」はなく、漠然とした情報の集まりがあるだけである。
  表層は深層だけでは決定されず、ユーザーの読み込み方によって変わる。私が物語を読み込む。
  大塚の物語消費の構造はこれを反映している。

 オタク系はポストモダンの二層構造に敏感である。
 作品というシミュラークルが宿る表層と設定というデータベースが宿る深層を区別している。

※一理あるのかもしれないが、「近代」と「ポストモダン」を区別するために、
 「データベース」という抽象的な言葉を新たに導入しただけで、大塚さんの論からあまり進んでいない。
 そもそも53ページで物語消費の構造を勝手にデータベース・モデル側と評しているが、文章を読む限り、
 大塚さんは「大きな物語」を完全否定しているわけではなく、本物と偽物の区別の曖昧さを指摘しているだけなので、
 その先のシミュラークルは東さんの見解に過ぎない。
 その意味で、大塚さんの『物語消費論』はどちらかと言うと古い近代の世界像に近い。
 あるいは、大塚さんの論を近代とポストモダンの過渡期と評して、三段階の構造にした方がよい。

 それと50ページで大きな物語は設定と説明しておきながら、54ページでデータベース=設定としているため、
 数学的には大きな物語=データベースになってしまう。
 これは東さんの全体の構想を好意的に考えれば明らかに誤読だが、同じ言葉を曖昧な定義で用いた彼にも問題がある。
 同じ言葉だと違いをはっきり示せないので、余計な論争を防ぐために、
 「大きな物語」の場合は「世界観」という言葉のみに統一して、「設定」という言葉を避けた方が無難だろう。
 後の「データベース」や「キャラ萌え」の話でも、「設定」という言葉を使っているのだから。


3――大きな非物語

・大きな物語(近代)の凋落
  ↓
・失われた大きな物語を補填するために虚構へ(1970~80年代のポストモダン
  ↓
・データベース的な消費へ(1990年代のポストモダン
  データには固執するが、それが伝えるメッセージや意味に対して無関心
  「キャラ萌え」(物語とは無関係に、その断片であるイラストや設定だけを消費する)へ

※現代のオタクは本当に物語やメッセージを軽視しているのだろうか。
 キャラクターが重要なのは分かるが、それは商業的な事情に過ぎず、昔も今も変わらない傾向ではなかろうか。

・『エヴァンゲリオン』のファンは作品世界の全体にはあまり関心を向けず、
 二次創作的な読み込みやキャラ萌えの対象として、キャラクターのデザインや設定にばかり関心を集中させた。
 『ガンダム』のような大きな物語=虚構は欲されなかった。
 『エヴァ』は『ガンダム』のような続編がなく、二次創作が多い。

 つまり、『エヴァ』は特権的なオリジナルではなく、二次創作と同列のシミュラークルである。
 『エヴァ』が提供したものは「大きな物語」ではなく、「大きな非物語(物語なしの情報の集合体)」である。
 『エヴァ』ファンは従来型の消費をするのでも、『ガンダム』のように背後に隠された世界観を消費する(物語消費)のでもなく、
 最初から情報=非物語だけを必要としていた。

※一行目から疑問である。
 むしろ『エヴァ』ほど世界観を解明しようと多くのファンが奮闘した作品は他にないと思うのだが。
 たしかに二次創作が異常に多い作品ではあるが、二次創作自体は他の作品でもあるので、説得的な論になっていない。

 59ページで勝手に「大きな物語=虚構」としているが、
 大きな物語が凋落し、それを補填するために虚構に向かっていったわけだから、この2つを等号で結ぶのは乱暴である。
 総じて東さんの文は言葉の定義がいい加減で粗い。
 違う章の内容が矛盾しているならまだいいが、数ページ違うだけで言葉づかいが微妙に変わっているのは問題である。
 これでは山川賢一さんに「グラデーション論法」と批判されても仕方ない。

 『エヴァ』の続編がないのは、単に劇場版で話が終わったからである。あそこから続編を作れと言う方が無理がある。
 (「新劇場版がある」と言われるかもしれないが、あれはリメイクであり、続編ではない)

 62ページで世界観を消費することを「物語消費」と命名してしまっているが、
 これだと53ページで大塚の物語消費をポストモダンの世界像(データベース・モデル)にしたことと矛盾する。
 何故なら背後にある世界観を消費することは、古い近代の世界像(ツリー・モデル)に近いからだ。
 やはり2で述べた通り、大塚さんの『物語消費論』は近代か、近代とポストモダンの間に位置づけられるものだろう。


4――萌え要素

・それでも『エヴァ』は、大きな物語ではないにせよ、いまだデータベースに近づくための入口として機能していた。
 しかし、『エヴァ』以降、オタク系文化は、その必要性さえ放棄しつつある。

 メディアミックスの台頭により、オリジナルとコピーの区別が曖昧になっている(シミュラークル化)。
 典型例は1998年の「デ・ジ・キャラット」というキャラクター。この場合、物語がない(非物語)。

※一行目はやや弱腰で曖昧な表現だ。
 おそらく『エヴァ』を単純なデータベース消費と見なすと、私のように批判する者が現れると想定し、
 大きな物語→過渡期の『エヴァ』→データベースという流れにすることで、理論武装したのだろう。

・『デ・ジ・キャラット』の場合、物語の不在を補うかのように、「キャラ萌え」が発達している。
 「萌え要素」(消費者の萌えを効率よく刺激するために発達した記号)が多い。
 具体的には、触角のような髪・猫耳・メイド服など。
 昔は作品の背景に物語があったが、現在はキャラクターの重要性が増し、「萌え要素」のデータベースが整備されている。


5――データベース消費

・いまや、個々の作品(物語)よりも、キャラクターの魅力の方が大事

・近年の多くのキャラクターは、単独の作品から出てきたのではなく、作品横断的に多数のキャラクターと繋がっている。
 彼(彼女)らは作品固有の存在ではなく、消費者に萌え要素に分解され、新しいキャラクターを作る材料として現れる。

・1990年代以降の「キャラ萌え」は、キャラクター(シミュラークル)と萌え要素(データベース)の二重構造の間を往復する
 ポストモダン的な消費行動である

・単純に作品(小さな物語)を消費することでも、その背後にある世界観(大きな物語)を消費することでも、
 設定やキャラクター(大きな非物語)を消費することでもなく、
 そのさらに奥にあるオタク系文化のデータベースを消費することを「データベース消費」と呼びたい。

 まとめると、70年代に大きな物語を失い、80年代にそれを捏造する段階(大塚の物語消費)を迎え、
 90年代にその捏造さえ放棄し、単にデータベースを欲する段階(東のデータベース消費)を迎えた。

※ここで大塚さんの物語消費と東さんのデータベース消費が違うことがはっきりする。
 やはり前述した通り、厳密には三段階の構造だ。


6――シミュラークルとデータベース

ポストモダンシミュラークルはどのように増えるのか?
 昔は無秩序に増えるものだったが、これまでの話を踏まえると、
 今はオタク達がシミュラークルとデータベースの二層構造を自覚することによって増えるものだと言える。

・オリジナル対コピーからデータベース対シミュラークル
 作家性から萌え要素


7――スノビズムと虚構の時代

ポストモダンにおける人間性はどうなってしまうのか?

・フランスの哲学者・コジェーヴによると、ヘーゲル的「歴史の終わり」の後は、
 アメリカ的「動物への回帰」か日本的「スノビズム」しかない。
 前者は自然と闘争せずに、調和すること。欲求のままに生きること。
 後者は環境を否定する実質的理由が何もないのに、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式。
 たとえば切腹切腹の場合は、死ぬ理由がないのに、名誉に基づいて、自殺する。

・(近代~ポストモダンの)オタク系文化は日本的「スノビズム」だ。
 オタクたちは子供騙しであることを承知の上で、本気で感動している。
 つまり、オタク的感性は無意味な内容から形式的な価値「趣向」を切り離すことで成立している。

・「スノビズム」はジジェクの「シニシズム」にも近い。
 典型例はスターリニズム。形式(見かけ)を信じるために実質を犠牲にする。
 20世紀はそうした「シニシズム」に支配されていた。オタク系文化とてその例外ではない。

大澤真幸によると、1945~70年は「理想の時代」、70~95年は「虚構の時代」


8――解離的な人間

・いまや大きな物語は必要とされていない。しかし、ウェルメイドな物語への欲求はむしろ高まっている。
 この矛盾こそ、データベース消費を担う主体の性質だ。

・具体例はノベルゲーム。Keyの『Kanon』や『Air』。
 萌え要素の組み合わせだけで、オタクたちが効率よく感動できる(萌えられる)ように作られている。

・ノベルゲームはコンピュータ・ゲームなので、消費者でもソフトでデータベース(画像の断片)を吸い出せる。
 そのため、より徹底したシミュラークルの制作ができる。「マッドムービー」がその典型だ。

 (一般化すると)表層では一つのものに見える物語展開も、深層では無意味な断片の集まりに過ぎない。
 そのため、消費者はその断片を別の方法で組み合わせることで、
 原作と同じ価値を持つ別のバージョンのノベルゲームを作れる。

・近代の人々は小さな物語から大きな物語に遡行していた。
 近代~ポストモダンの人々はスノビズムを必要とした。
 だが、ポストモダンの人々は小さな物語(シミュラークル)と大きな非物語(データベース)を
 「解離的」(バラバラ)に共存させている。
 ノベルゲームもマルチストーリー(エンディング)を前提としているので「解離的」だ。

※要考察:マルチストーリーはノベルゲームが流行る前(ポストモダンの前)からあったのではなかろうか?


9――動物の時代

スノビズムが90年代に終わり、データベース消費になった。
 これを先のコジェーヴの言葉を踏まえて、「動物化」と呼ぶことにする。
 これは他人がいなくても単純な欲求だけで満足してしまう状態になることを意味する。

・現代のオタクたちはもはや大きな物語(従来の作家性)やスノビズムを必要とせず、
 感情的な満足を効率よく達成してくれる萌え要素の方程式を求めている。
 彼らは知識人でも、性倒錯者でもなく、薬物依存者に近い。

・大澤の1945~70年は「理想の時代」、70~95年は「虚構の時代」とする論を受けつぎつつ、
 95年以降を「動物の時代」としたい

・オタクたちの社交性は、現実ではなく、特定の情報への関心のみで支えられている。
 彼らは自分にとって有益な情報を得られる限りは社交性を発揮するが、同時にそこから「降りる」自由もある。

・(最新の)ポストモダン・動物の時代では、もはや大きな共感など存在せず、
 世界は小さな物語と大きな非物語、シミュラークルとデータベースの二層構造で捉えられる。
 人々は、前者では動物化し、後者では疑似的で形骸化した人間性を維持する。
 このような人間を「データベース的動物」と言う。

 近代の人間は物語的動物だったため、生きる意味を社交性で満たせた。
 しかし、ポストモダンの人間は生きる意味を社交性で満たせず(人間性の無意味化)、
 むしろ動物的な欲求に還元することで孤独に満たしている。
 これが7の「ポストモダンにおける人間性はどうなってしまうのか?」に対する答えである。


※144ページで「前章までの議論で~本書の目的はあるていど達成してしまった」で述べているので、第三章は省略



~総評~

 全体的に深読みし過ぎだと思う。
 思想・哲学そのものは興味深いが、それとオタク系文化を関連付けるのは、かなり無理があると思う。
 本書は思想・哲学とオタク系文化を無理やり関係づけようとしているだけで、得られるものがほとんどない。
 妄想に妄想を重ねているだけで実証性に乏しい。
 (この点については評論家の後藤和智が『おまえが若者を語るな!』で痛烈に批判している)

 これなら「バブル崩壊以降、景気が悪くなって非正規雇用が増えたため、オタク系文化の消費もミニマム化した」
 というような陳腐な経済論(*1)の方がまだマシだし、これの方が最近の消費(の弱さ)を語るうえでよっぽど重要だ。
 あるいは「価値観が多様化したため、何が現代かは人それぞれ」という意見も、身も蓋もないが、正直だ。

 結局、東さんはこうした単純化できる社会問題を哲学関係の概念で複雑にし、分かり辛い言葉で煙に巻いているだけである。

 *1…wikipediaのデータベース消費の3 評価・批判および代替・関連モデルにも、経済論のみに還元する似たような見解がある