赤目無冠のぶろぐ

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社会学やら批評やらが嫌いな理由~その限界について

どうも「~をまとめる」という記事は認められるまでに時間がかかりますね。
知っている人が少ないネタだとダメなようです。

ただまとめるだけでなく、それを昨今の社会問題や時代背景と絡めて書く必要があるようですが、
個人的にはそういうのってすごく嫌いなんですよね。
今回はそうした行為が嫌いな理由について書いておきます。

最大の理由は「こじつけに過ぎない」。これにつきます。
たとえば最近だと半沢なんたらというドラマが人気だったらしく、
それを「閉塞感のある実社会」と関連付けてして考察しているブログがいくつかありました。
よい観点であり、それなりに説得力のある記事もありました。
「閉塞感がある時代だから、こういうドラマが流行った」という論調でいけばそれだけで立派な文章になるわけです。

しかし、考えてみれば、閉塞感なんていつの時代もあります。先のことは誰も分からないわけですから。
たとえば、かつてブルーハーツというバンドが流行ったときも「閉塞感のある今の社会を表現している」と批評されました。
つまり景気のよいバブルの時でさえある種の閉塞感はあったわけです。
となると、別にブルーハーツだって流行るわけですし、閉塞感が今の時代にしかないものとは限らない。
つまり唯一性を示したことにはならないと思うのです。

このあたりがいわゆる批評や社会学系の限界だと思います。
つまり、批評家はしばしば「Aな時代だからXだ」ということを説明するわけですが、
それが唯一絶対であることを十分に説明しているわけではないのです。
「Aな時代だからYだ」もあるわけです。
上の例でいえば「閉塞感のある時代だから半沢ドラマが流行った」もあるし「閉塞感のある時代だからブルーハーツが流行った」も言えるわけです。
となると、半沢のみが(あるいはブルーハーツのみが)特別な唯一性を有しているわけではなく、
「実は閉塞感関係なく何でも流行るものは流行るのではないか」、という疑問が浮上します。
つまりこの議論をきちんとするためには、閉塞感によって、半沢「のみ」しか導かれないことを説明する責任があります。

さらにいえば同様の論調で、本当に閉塞感のみが原因なのか、という問題もあります。
もしかしたら明るくて何も閉塞感のない時代でも流行ったかもしれない。
もしそういう反例が一つでも発見されれば、この批評はそれこそただの「こじつけ」と化すわけです。
「Bな時代だからXだ、Yだ」も言えるぞ、ということになり、別にAでもBでもXやYはもともと流行る運命だったんじゃないの(あぁ説明するの馬鹿馬鹿しい)、ということになります。

ついでにいえば閉塞感のある時代(Aな時代)が今だけだと何故言えるのでしょうか。
上で示したように、別にいつも同じことを感じているのです。
いつものことを言っているのに、特別なことかのように言うトリックが巧妙に隠されているわけです。

ですから社会学や批評というものは、究極的には、「何を言っても言ったもの勝ち」というある種の相対主義に陥っているだけであり、何か真実を発見しているわけではないと思うのです。
実はバカバカしい妄想だと思います。思想や哲学もその傾向があります。
こうした問題から可能な限り自由になっているのは、数学・物理などの理系の学問ぐらいで、
実はほとんどのものは混沌とした中にあるのです。

というわけで、私は基本、作品の真実の列挙のみに留めていきたい。
明るい時代でも暗い作品はあるしその逆もある。
世相と作品に過剰な関係性を求めるのは批評家の悪いこじつけだと思います。
時代背景を語るうえで都合のよい作品だけをピックアップして「あーだこーだ」言うのは、
統計学でいうなら作為的な抽出をしているだけで、何のデータにもなり得ません。
実際には都合の悪い作品も同時代にあるわけですから。

まぁ5分ぐらいで思いついたことなので、このぐらいにしておきます。