池尾和人の『連続講義・デフレと経済政策 アベノミクスの経済分析』
池尾和人による『連続講義・デフレと経済政策 アベノミクスの経済分析』(日経BP社、2013年7月)
を自分なりに要約した。
(要約の中に私の誤解が含まれている可能性もあるので、厳密に知りたい人は本文を読んだ方がよい。)
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冒頭の『福澤全集』の含意
多くの人は今の損得だけを考えてしまうが、学者はどんなに非難されても将来の損得を考えるべきだ
※おそらく「大衆はすぐに景気がよくなりそうなリフレ派の政策をついつい支持してしまうが、
(反リフレ派の)学者はどんなに非難されてもそれによる将来のリスクを絶えず警告すべきだ」と言いたいのだろう
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はじめに
アベノミクスは大方の予想を上回った。理由は以下の2つ。
1.政策の不確実性が少なく、予測しやすかったから。分かりやすかったから。
2.タイミングがよかったから
2012年10~11月の時点で円高是正が始まっていたため、政策内容が相場のトレンドに合っていた。
しかし、政策内容が正しいかどうかはまだ分からない。
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第1講 なぜ日本はデフレに陥ったのか
その1 インフレ予想と実績としてのインフレ
(1)(他が一定だとすると)賃金率の動きが物価を決定する
(2)労働の需給バランスを考えると、賃金率は失業率が上がると下がり、下がると上がる。
(1)、(2)より物価は失業率が上がると下がり、下がると上がると考えられる。
実際、フィリップスによって物価上昇(インフレ)率と失業率の間に右下がりの関係があることが経験的に示されている。
この関係を「フィリップス曲線」と呼ぶ。
第二次大戦後しばらくの間、このフィリップス曲線が経済政策の基本だった。
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しかし、だんだんインフレになっても失業率が改善しない状況になっていく。
そんな中、ミルトン・フリードマンがフィリップス曲線を批判する。
彼は労働者が見ているのは名目賃金ではなく実質賃金だと判断する。具体的には、
単純に上の(1)のように名目賃金上昇率=物価上昇(インフレ)率と考えると、
(3)物価上昇(インフレ)率=予想インフレ率-失業率
ここで予想インフレ率が一定(短期)なら、フィリップス曲線は成立する。
しかし、長期的には人々の予想が現実に追いついて、現実のインフレ率=予想インフレ率となるため、成立しない。
※横軸を失業率、縦軸をインフレ率とすると、グラフは長期的には失業率=一定という縦棒になる
このような結果が米国で起こってしまった。
この経験とフリードマンの批判から、インフレ率を上げることで失業率を下げようとしても持続的ではないと分かる。
失業率の低下を達成するためには、労働市場のマッチング機能を強化するための構造改革を進めるしかない。
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GDPギャップ=(現実の実質GDP-潜在GDP)/潜在GDP
これを上の(3)に代入すると、
(4)インフレ率=予想インフレ率+GDPギャップ
これが今日における物価版のフィリップス曲線。
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(4)に基づくデフレの原因の分析
・日本の場合、予想インフレ率が低い。0~1%しかない。
過去にスタグフレーションのような高インフレを経験しなかったから。
・大きな金融危機を経験した後は、GDPギャップの解消が困難。
危機が終息しても、バブルによる需要構造がそのまま復活するわけではないから。
しかも供給構造はバブルに合わせて作られているから。
そのため、供給構造の見直しが必要。需要不足の対策だけで解決する問題ではない。
しかも日本の場合、バブル崩壊、国際環境の変化、少子高齢化の問題もある。
供給構造の変革は大変な(産業調整コストが高い)ので政治的には無視されやすい。
そのため、新しい需要構造に合わせた供給構造の組み替えが遅い。
だからGDPギャップのマイナスがなかなか解消しない。
今のマイナスのGDPギャップは単なる需要不足ではなく、需要構造に供給構造が適合していないことによるもの。
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その2 予想インフレ率は操作できないのか
実質利子率を下げれば実質GDPが増え、マイナスのGDPギャップを解消できると考えられる。
しかし、実際には実質利子率を直接に操作することはできない。操作できるのは名目利子率。
予想インフレ率が一定なら、名目利子率を下げれば実質利子率も下がる。
しかし、予想インフレ率も動いてしまうと実質利子率を変えられない。
予想インフレ率がアンカー(固定)されていることが絶対に必要な条件となる。
しかし、自然利子率がマイナスの場合は逆に予想インフレ率が動いてくれないと困る。
名目利子率をゼロ未満にすることはできないというゼロ金利制約(Zero Lower Bound)があるから。
もちろん予想インフレ率が高くなればよいが、不況の場合は低くなりやすい。
日銀は「量的緩和」政策(*1)を実施したが効果は低い。
「予想インフレ率が上がる」と主張する人達は、ゼロ金利制約を考慮していない。
まだ金利に低下する余地がある時は、
ベースマネー増加→マネーストック(世の中に出回っている貨幣量)増加→物価上昇
という貨幣数量説が成立し得る。
しかし名目利子率がゼロに近い場合、債券を保有しても貨幣を保有しても差がないため、
貨幣需要が大きくなり、金融緩和政策が無効になってしまう(「流動性の罠」)。
*1…ゼロ金利制約の下でベースマネー(マネタリー・ベース)(中央銀行が提供している銀行券と準備預金の合計)
の供給量を増やすこと
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では、「流動性の罠」から脱却するためにはどうすればよいのだろうか。
1998年のポール・クルーグマンの論文によると、
「中央銀行が将来、無責任になってもっと高い物価水準を目指すことを信用できる形で約束できれば、
金融政策も有効になる」。
しかし、必要のないことを将来やると約束しても本当に信用してもらえるのだろうか。
コミットメント(確約)が難しい。時間的非整合性の問題がある。
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ケインズ的には金融政策が無効なので、財政政策が有効である。
具体的には、財政ファイナンス(ヘリコプター・マネー政策)があり得る。
しかし、日本の場合、これ以上財政赤字を拡大させると、財政破綻のリスクが高まってしまう。
具体的には、長期金利が上昇する。
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考えられる奥の手は円安誘導策。
円安に誘導できれば、輸出を促進できるのでGDPギャップを改善できる。
同時に、輸入原材料の価格が上昇するので、コスト・プッシュによる物価押し上げ効果を見込める。
しかし、日本は国際通貨基金(IMF)の加盟国なので、為替介入できない。
なお、日銀がベースマネーの供給量を増やせば円安にできるという論があるが、
前述した通り、日本はゼロ金利制約下にあるので、間違いだと思う。
1990年代までは「ソロス・チャート」(円ドル相場は日米のベースマネー量の比で決まる)が成立していたが、
ゼロ金利制約に直面してからは成立していない。
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その3 二部門経済としての日本経済
日本は単なる需要不足ではないので、マクロ経済政策だけでは不十分。
需要構造と供給構造の間にずれがあると考えられるので、産業構造を調整すべき。
たとえば、客が中高年主体になっているのに、若者向けのメニューのままだから、販売不振になっているとする。
この場合、明らかに中高年向けのメニューに変えた方がよい。
需要不足が供給構造が古いままであることに起因しているとすると、
需要喚起策ではなく、民間の産業構造調整を妨げている規制を緩和することに注力すべき。
(アベノミクスの第三の矢、成長戦略に対応)
たとえば、医療・介護は成長産業なので、規制緩和して民営化した方がよい。
日本の医療費の対GDPは低い。
むき出しの市場メカニズムはよくないが、最低水準を公的に確保した上で、民間に任せるべき。
これをしないと平等でも十分な医療を受けられないという「貧者の共産主義」に陥る。
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生産性の上昇率が輸出型製造業>それ以外なので、
固定相場制の場合は、価格が一定なので、労働生産性が上がった分だけインフレになり(賃金率が上がり)、
変動相場制の場合は、労働生産性が上がった分だけ円高になるため、デフレになる。
(生産性上昇率格差インフレーション(デフレーション)論)
グローバル化で、生産性がそんなに上がっていないのに、価格を下げなければならなくなっているため、
賃金を下げるしかない。
「(生産)要素価格の均等化」の圧力がかかってきているため、
日本の実質賃金が新興国のそれと均等化してきている。
要するに、輸出型製造業が新興国に追いつかれてきている。
しかも日本の場合、輸出型製造業とそれ以外の労働生産性の格差が海外よりも大きい。
こうした実質賃金の下落傾向は実質的な圧力なので、
金融政策のような貨幣(名目)的な手段だけでは阻止できない。
具体的には、輸出型製造業以外の労働生産性を上げなければならない。
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第2講 マクロ経済学の新しい常識
その1 マクロ経済学小史
経済学は市場を信じる主流派・古典派経済学と信じない反主流派・ケインズ経済学に分かれる。
マクロ経済学は最初はオールド・ケインズ経済学(IS・LMモデル)だったが、
石油ショックとそれに伴うスタグフレーションの経験により、
ミルトン・フリードマンを代表とするマネタリストに批判される。
さらにルーカスが、オールド・ケインズ経済学では、政策を変えても、人や企業の行動パターンは変わらないが、
それは現実的ではない仮定だと批判する(「ルーカス批判」)。
この批判により、マクロ経済学においても、人や企業の行動も考慮した
「ミクロ経済学的基礎付け」が必要だと考えられるようになる。
さらに、「時間」や「予想」も重視した動学的で確率論的な分析が進み、「合理的予想仮説」が浮上する。
これにより、「実物的景気循環論(Real Business Cycle)」が完成する。
本モデルの場合、景気変動は実物的な問題に過ぎないため、政策介入しても意味がないことになる。
しかし、それはあんまりだろうということで、
1990年代にこのRBCに対抗する形で「ニュー・ケインジアン」が台頭する。
ニュー・ケインジアンは価格(賃金)の粘着性に繋がるような摩擦要因を組み込んだもの。
昔はケインジアン対マネタリストだったが、今はRBC対ニュー・ケインジアン。
もっとも2007~09年の金融危機をRBCもニュー・ケインジアンも予想できなかった。
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その2 本当のインフレ・ターゲティング
ケインジアン対マネタリストは「裁量かルールか」が論点。
昔はケインジアンが優勢だったので、裁量を重視した。
戦後はブレトンウッズ体制(基軸通貨はドルで固定相場制→金とドルのレートは一定)が基本だったが、
インフレーションが高進したため、1971年のニクソン・ショックを契機に崩壊してしまう。
具体的には、金とドルの兌換(だかん)を停止してしまう。
これにより、世界(日本以外の国)は金というアンカーを失ってしまったため、
通貨価値の安定をいかに図るかという問題に直面し、インフレバイアスに苦しむ。
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こうして1990年代にインフレーション・ターゲティングという金融政策が導入される。
因みに、ルールを重視するマネタリストの論は、1980年代に廃れた。
金融革新で様々な金融商品が増えた結果、どこまでが貨幣量が分からなくなってしまったから。
そのせいで貨幣供給量と名目GDPの相関関係が弱まってしまったから。
そこで貨幣量ではなく、インフレ率の維持(物価の安定)に直接言及する姿勢に変わっていく。
これは裁量とルールの間をとったもの。
(しかし、日本のインフレ目標政策は、何が何でもインフレにすると言っている点で、裁量的なもの)
なお、インフレ・ターゲティングとニュー・ケインジアンは相性がよい。
中央銀行が物価の安定化を図ることで、価格(賃金)の粘着性という摩擦要因を取り除けると主張できるから。
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マクロ経済学は貨幣量を操作するものだが、中央銀行が実務で操作できるのは利子率(政策金利)のみ。
そんな中、1992年にテイラーがテイラー・ルールを提唱する。
政策金利=A×(実際のインフレ率-目標インフレ率)+B×GDPギャップ+C
アメリカは、A=1.5、B=0.5、C=4ぐらい。A>1(「テイラー原理」)が安定条件。
最近は昔のLM曲線ではなく、この「金融政策ルール」で考える。
(したがって、貨幣量を考慮していない論を「日銀理論」と批判する者は、IS・LMモデルで思考停止している)
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その3 金融危機以後の変化
(ラジャンやケネス・ロゴフは金融危機を予見していた)
金融危機を防げなかったのは「金融仲介機構」の機能不全を軽視したから(情報の非対称性の問題)。
2007年までは、取り付け騒ぎを防ぐ預金保険制度があったため、安全だったが、
実際には預金保険の対象となっていない「影の銀行システム(shadow banking system)」があったため、
最終的に金融危機が起こってしまった。
代表的な金融商品はレポ(repo)(買い戻し条件付き資産売却取引)。
これには政府の保証がなかった(しかも証券化していた)。
金融危機以降は、金融仲介機構の存在意義に繋がる摩擦要因も考えられるようになっている。
(「金融資本市場の不完全性」)
バーナンキが金融危機以前から「金融加速化」理論を提唱していたが、その対策が不十分だった。
学者もそれなりに頑張ってはいるが、従来のマクロ経済学のモデルを修正するだけでは、
閉塞的な状況から抜け出せないという意見もある(←今ここ)。
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第3講 ゼロ金利制約と金融政策
その1 金融政策って何?
金融緩和→中央銀行が国債を買う→準備預金が増える→インターバンク市場金利が下がる
→企業や家計への貸出が増える→マネーストック(世の中に出回っている貨幣量)が増える
しかし、ゼロ金利制約下では、インターバンク市場金利がもはや下がらないので、貸出は増えない。
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その2 非伝統的な金融政策
短期金利がゼロでも、長期金利がゼロになるわけではないので、
ゼロ金利政策を長期間にわたって継続することをコミットする方策が考えられる。
これを時間軸政策(フォワード・ガイダンス)と呼ぶ。
ポートフォリオ・リバランス効果があるとすれば、「量的緩和」政策も考えられる。
しかし、短期国債を買うだけなので、日本の場合、準備預金が増えるだけで、無効だった。
(長期国債を買うことで長期金利の低下を目指したアメリカのQE2でさえ、あまり効かなかった)
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その3 いかなる出口に至るのか
大量に長期国債を買うことは財政ファイナンスかもしれない。
将来、中央銀行が国債を売りたい(金融の引き締めをしたい)と思っても、
財政危機のせいで売れなければ、財政ファイナンスである。
デフレ脱却後はインフレになって長期金利が上昇するので必ず損失が発生する。
明確な出口戦略のない金融政策は無謀である。
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第4講 金融緩和と為替・財政政策
その1 為替レートの決定要因
リーマンショック後の円高の原因は「世界的な不均衡(グローバル・インバランス)」。
ゼロ金利制約下では、為替はベースマネー量の比で決まるというソロス・チャートが成立しない。
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その2 財政政策の有効性と持続可能性
(複数均衡なら)財政出動も有力。
しかし、リカードの中立命題(公債発行でも徴税でも政策効果は一定)が成立すると乗数が1になってしまう。
財政政策は有力だが、需要の先食いでしかなく、将来世代にツケを回している。
成長率>利子率が怪しくなってきている。
ボーンの条件(前年度の公的債務が増加した時に、今年度のプライマリー・バランスが改善している)も、
慶應の土居氏によると、満たしているとは言い難い状況になってきている。
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その3 貨幣発行益の枯渇
1990年代後半以降、名目GDPがほとんど変化していないのに、日本銀行券発行残高だけが増えている。
「タンス預金」している状態。名目GDPが今の2倍の1000兆円になっても十分なだけの現金が既に世の中にある。
つまり、現金需要が飽和してきており、貨幣発行益が枯渇している。
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第5講 アベノミクスの現在と将来
その1 量的・質的金融緩和の行方
あえて大胆な予測を述べると、成功確率は1~2割。失敗確率も1~2割。
7割ぐらいの確率で、資産価格は急上昇するが、実体経済はそれほど変わらない。
「大山鳴動、ネズミ一匹」と言ったところか。
黒田新体制は気合いだけで論理的とは言い難い。
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その2 財政健全化という逃げられない課題
「中福祉・低負担」なので、財政赤字が拡大している。
とはいえ公共投資はプラスなら実施すべき。
少子高齢化を考えると、厳しいが、「低福祉・中負担」しかない。
インフレになっても、歳出増が税収増を上回ってしまうので、財政収支はむしろ悪化する。
「実質的な」経済成長が必要。
「財政の持続可能な姿を示す」ことで、「政策の不確実性」を減らし、将来の見通しを明らかにすべき。
今後は「金融抑圧」(金利を低位に誘導すること)が不可避。
問題はこうしたやり方を続けていて低金利状態を本当に維持できるかどうか。
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その3 潜在成長率の引き上げ
労働人口が減っていく中で成長率を高めるためには、「労働生産性」を上げるしかない。
アギオン=ホーウィットの『成長の経済学』の第3部によると、
競争と参入の促進(12章)、教育(13章)、不確実性の減少(14章)、TPPのような貿易の自由化(15章)など。
ターゲティング・ポリシー(特定の産業を支援する政策)はよくない。
第一に、政府の能力には限界があるから。
第二に、政府の顔色ばかりうかがうようになるから。
政府はあくまで裏方。主役になってはいけない。
コーエンやゴードンによると、今後は長期停滞が予想される。
第三波の産業革命として情報通信技術も考えられるが、機械に仕事を奪われるので、技術的失業が予想される。
よって、人的資本への教育投資を強化する必要がある。
イノベーション自体は否定しないが、それを活かし切るためには、大いなる努力が必要。
なお、ゴードンによると、6つの逆風がある。
1.人口オーナス期(全人口に占める労働人口の比率の下落)
2.教育の達成度の下落
3.経済格差の拡大
4.「要素価格の均等化」の圧力の上昇(第1講参照。要するに、賃金が途上国水準に下がる。)
5.エネルギーと環境の制約
6.家計と政府の負債の膨張
これらは金融政策や財政政策では解決できない。地道な努力を続けていくしかない。
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おわりに
日銀の黒田氏のやり方は、民間のリスクテイクを促すものであり、危険だ。
FRBのグリーンスパンが「市場に優しい」方針をとったことで、皆が過度のリスクテイクを行うようになり、
結果として2007~09年のグローバル金融危機が起こったことを忘れてはならない。