赤目無冠のぶろぐ

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じょーねつ氏の黒髪ロング論を読んで~本当に現代のドラマは死んでいるのか?

じょーねつ氏の「少年は黒髪ロングの夢を見るー黒ロンから見た現代のドラマ」という示唆に富んだ文を添削していきたい。
無駄に長いので時間がある時に読むことを勧める。


【自由ってせつなくないですか ~黒ロンから遠くはなれて~】

冒頭の「人間は自由の刑に処せられている」はフランスの哲学者、サルトルの言葉。

自由な方がかえって不安だという論は私もかつて最先端オタクの感覚~ポストモダンから中国へという記事で展開したことがある。
私はそこから人は最終的に「多少の選択権があって、それ以外は絶望的に不自由な」状態を望むと考えた。
概ね同意できる出だしだと思う。

特に「悪の正体はわからなくても反抗する」は説得的。
戦後日本のマルクス主義的な学生運動もこれで説明できそうである。
要するに戦争の代わりとなる争点をつくりたいだけであり、そこに本質はない。
無理やり、何らかの敵が存在することにして、後づけで本質を追っているだけであり、学生運動は児戯に等しい幻想である。
運動をするのであれば、せめて社会人を巻き込んで建設的なビジョンを創造するべきだった。
こんなバカなことをするぐらいなら、雀荘で麻雀をしている輩の方がまだ賢い。


尾崎豊のことですね】

彼もまたありもしない何かと戦った一人であろう。
もっとも彼の場合、「死」が結論になってしまったが。
何となく、三島由紀夫をほうふつとさせる。
彼らには何が見えていたのだろうか。

それとカッコ内の原発の話が地味に秀逸。たとえ話としてはうまい。
確かに放射能は見えない敵である。
言わばここに来て、ようやく見えない敵が具体的に認識されたことになる。


オウム真理教エヴァンゲリオン

 


この2つ(オウムとエヴァ)はもうセット。
ゼロ年代の想像力』という本でも展開された頻出の手筋なので、概観しておくことを薦める。

すなわち、自由に疲れた人々が望んだものは、皮肉なことに宗教による理不尽な束縛だった。
ある種の思考停止を肯定したともいえる。
東大生でさえオウムに入ったのだから、これはこじつけではなく、真面目な社会問題だと思う。


ただし、エヴァのラストがドラマ性の完全な否定かは議論の余地がある。
何故なら作中の主人公はラストで自分が存在することを自分で認めているからである。
その意味で、ドラマが死んだのではなく、ここでようやくドラマが生まれたのではなかろうか。
最近の私はそう考えている。つまり実は始まってさえいなかったのだ。

思うに上記で述べた尾崎も三島もオウムも、理想の自分だけを追ってしまっており、
ありのままの気持ち悪い自分から逃げ続けている
じょーねつ氏もその一人で、彼らのような自意識(ナルシシズム?)が文章から伝わってくる。
本当は何もないダサい自分がいる。それが怖いのだ。認めたくないのだ。だから彼らは破滅するしかなかった。
だが、エヴァの主人公はたとえ他人に罵られるこの理不尽な社会に戻ることになっても、
ダメな自分がいる世界があった方がよいと勇気を持って認めた
この差は大きい。雲泥の差である。
意味不明で悲劇的だと批判されることが多い作品だが、実は随所に希望も残している。

確かに「もうこれ以上描けない」という監督・庵野氏のクリエイターとしての苦悩も入っているのかもしれない。
だが実は彼ほど愛嬌があって人間好きな人間はいない。
作中でアスカというツンデレ(ヤンデレ?)キャラが登場するが、実は庵野こそが最大のツンデレだと思う。
エヴァは潔癖な人間が単純に理想だけを追ってできるものではない。明らかにジブリ的な構造ではない。
人間臭い者が率直に間違いを認めない限りあんな話にはできない。
思うに彼は毎回、その場で子供のように考えていたのだと思う。その意味で計画性もないし構想力も怪しい。
だがもし人並みの構想力を彼が有していたら? 無難な凡作ができるだけだろう。


【ドラマなき時代の黒ロン】
【黒ロンはドラマの申し子である】
【黒髪ロングの魔法少女】

というわけで、本当にドラマがないのか、という疑問は残るわけだが、
ここで否定してしまうとその先が全て破綻してしまうので(苦笑)、
以下ではとりあえず、じょーねつ氏の言う通り、「ドラマがない」という前提で読み進めていきたい。

いろいろあるが、ここでは、
「まどマギ」というアニメに携わった脚本の虚淵玄がモラルの人であるという見解について触れておきたい。
この評価、最初は笑ってしまった。過大評価だと思ったからである。
だがその後のこの言葉が沁みた。

「現代においてモラルを優先すれば、ドラマは挫折するしかない」

いやー、すごいことを言うね、あんた。これは一理ある。
これが合っているとすると、鬱作品はモラルを優先しすぎた結果かもしれない。
リアルの中で美しさをマトモに求めすぎてしまうと、もう破綻させるしかない。
何故なら美しいことだけが現実のすべてではないと本当は誰だって分かっているから。
そうなるともうフィクションの創作自体が無意味なものになってしまうから。

「まどマギ」のまどかは現実の黒い部分をギリギリまで自覚できていない(あるいはしたくない?)。
そういう意味では、処女が処女のままでいることを望むようなラストになっていて、
本当に解決しているのか、本当にあれでいいのかという疑問は残る。
しばしばこういう美少女もののアニメが気持ち悪いと言う人がいるがよく分かる。
理想を追求しすぎると、異常なまでの処女性や少女趣味(レズ?)を露呈するしかないからだ。
さもなくば何処かで破綻させるか、日常ものに逃げて当たり前のことを淡々と繰り返すしかない。
まどマギの終盤の繰り返しという構造は、考えることを放棄した昨今の日常ドラマへのアンチテーゼと言える。

なお、繰り返しを見せつけて否定するという構造は珍しいものではなく、他のサブカルチャーでも見受けられる。
たとえば最近では涼宮ハルヒシリーズのエンドレスエイト、STEINS;GATE、未来日記などがその類である。
俗にループものと呼ばれる。
日本のサブカルチャーにおいては『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』がプロトタイプではないかと考えられている。*1

高校生のバンド活動を描いた「けいおん!」のような放課後が永遠に続くわけではなく、大多数はいずれ社会に出る。
そのため、どこかで日常ものの卒業を描かなければ物語は終わらない、いや、そもそも始まらない。
結果として、どうしても視聴者を裏切る要素がどこかで必要になってくる。


【黒ロンは歌舞伎の美学である】
【人間は神=髪の玩具である】
【人間は人形の夢を見るか】

歌舞伎については面白い。もともと演劇自体、一種の理想の追求なので、重なっているところはある。

「パズドラを神に捧げられんのかよ」←これは笑った。パズドラの会社には悪いけど(笑)。
現代人はもはや人間というキャンパスが真っ白なので、消費するピエロになる方が楽なのだと思う。
本来、我々が情報を統御するべきなのだが、もはや情報(たとえばグーグル)が我々を統御している。
ゲームを介してソーシャルネットワークに没頭していくのも同じことである。
だから私はツイッターやフェイスブックを辞めてしまった。
機械のようなたった140字のコミュニケーションでは物語ができない。
あれは記号が飛び交っているだけ。リツイートとお気に入り(ふぁぼ)はモールス信号のようなもの。
実は薄い関係で無理して満足しているだけで、ものすごい時間を無駄にしている。
自分が特定のことに反射するだけの機械になるようで嫌だった。


【少年犯罪と黒髪ロング】

少年犯罪はマスコミが騒いでいただけで、実はデータ上はどちらかといえば減少傾向にある。
そのため、個人的にはあまり重視していない。
ここは無理やり争点をつくって一人で勝手に苦しんでいるだけのような気がする。


【サラリーマンも黒ロンの夢を見る】
【今後の黒ロン】

要するにドラマがない時代だから、幻想世界の黒髪ロングに憧れている。
そうすることで、どうにかしてドラマを起こそうとしている。
要約するとこのあたりが彼の結論であろうか。

だが、この先は各自で考えてみて欲しい。
本当に現代のドラマは死んでいるのか?
エヴァのところで指摘したように、実は見落としているだけなのでは?
我々が一方的にドラマを否定しているだけで、ドラマが我々を否定したわけではない。
解釈の問題に過ぎず、対象となるドラマ自体は一定である。
もう少し大らかな態度でドラマを受け入れ、肯定してみてもいいのでは?

(こういうことが言えるということは私は本来は楽観主義なのだろう。
 逆にじょーねつ氏は悲観主義。どうも彼は何らかの挫折感がある。)


【おまけ2 時間は本当に流れるのか?】

たしかにシャフトの演出は昔の演劇に近い。紙芝居のような感じで独特。

時間の流れについては、もう少しブラッシュアップして書き直した方がいいかもしれない。
彼の文章力なら、このテーマだけで一つの記事にできる。これだけアホみたいに長い文を書く男なのだから。
ていうか書いてください、お願いします。正直、ここだけ意味不明(笑)。

*1: 詳しくはループもの - Wikipediaを参照