『涼宮ハルヒの憂鬱』の意義
アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』が売れた理由について少しだけ語っておく。理由としては以下の3つが考えられる。
(これは昔、fc2のブログで書いていた記事を転載したもので、今でもほぼ同じような見解である)
①制作会社・京アニの美少女ものとしての売り込み方が巧みであり、インパクト十分であった(要するに見た目の問題)
②その割に、原作が単なる萌え系に留まることのない内容で、一定の主張を兼ね備えていた(要するに内容の問題)
③youtubeなどの動画投稿サイトでアニメを見る慣習が2006年頃から本格的に
→サブカルチャーが多少理解されるように→時代の流れと合致(要するにタイミングがよかった)
①や③は薄っぺらい話なので、このうちの②の内容について詳しく述べておく。
本作の主張をひと言で表現するなら、「メーテルリンクの幸せの青い鳥」であろう(この言葉は原作でも登場する)。
「なかなか見つからない!」と必死に探し続けていた幸せが、意外と身近な場所にあった、というよくあるパターンである。
つまり、ハルヒが憂鬱な感情を抱きながら探し続けていた面白いことの延長上には、
平凡な日常とハルヒのキョンへの好意があったわけである。
それをSF要素でエンターテインしながらさりげなく言及するというのが、作者の大まかな構想であろう。
この基本的なメッセージを見落としてしまうと、奇怪な行動を続ける変な女が出てくるだけの話だと誤解されてしまう。
実際、冒頭だけだとそう思われてもしかたないと思う(苦笑)。
彼女の傍若無人な振る舞いやキョンへの恋煩いが「憂鬱」な状態を示していると読めないと、題名の意味もテーマも分からない。
(しかも厄介なことに話がシャッフルされているので、ますます分かりにくい構造になっている。
初見であっさり分かる人はこの手のアニメ的な見せ方に相当慣れている人か人生経験が豊富な人だろう。)
それと1巻『憂鬱』で特筆すべき点は、「普通」という言葉が多用されていること。
キョンは「普通」でなくなることを畏怖し、ハルヒは「普通」になることを畏怖している。
この2人の観点は正反対ではあるが、どちらも人間の価値観を忠実に捉えているといえる。
人間は多くの場合、完全に浮いてしまう(仲間外れにされてしまう)ことも、
アイデンティティ(自分らしさ)を失ってしまうことも、両方避けたい生き物だからである。
特に高校生ぐらいの時期は人一倍そういうことに敏感だと思う。
そういう意味で、この話は「普通」の中での「特別」を正当に勝ち得るまでの話と言ってもいい。
キョンがハルヒに「俺はいつも(普通)のお前が充分特別なんだ」といえば話があっさり終わってしまう。
キョンがハルヒの心の錠を開く「鍵」を握っているようなもので、それが開けばそれだけで話は終わる。
普通(日常)の中で特別(幸せ)を見つけられるのだから。元々、似てないようで似ている2人なのだから(*1)。
映画にもなった『消失』も基本は同じだと思う。
「あれは長門の消失だ」という主張が飛び交っているようだが、それは尺としての観点であり、
何度も見返してみると、やはりキョンのハルヒの消失による喪失感が根底を貫いている。
改変後2日目の夜、キョンが「なんてこった、俺はハルヒに会いたかった」とぼやくシーンがそれを如実に示している。
つまり、実は元の世界がよかったと再認識し、主人公が自己決断し、元の世界に帰る構造になっているわけだ。
この姿勢は本作のテーマであり、SFや冒険ものでもよく使われる常套手段である。
*1…やや話がそれるが、アニメ版憂鬱1話の「曜日で髪型変えるのは宇宙人対策か?」は、ちょっと面白い発言である。
まず、人の髪型の変化にわざわざ規則性を見出す時点で一風変わっているし、相手のことをよく見ている。
加えて、相手(ハルヒ)の興味に関心を持ちつつ話しかけているという点も見逃せない。
えてして人間は自分が聞きたいことを自分の都合だけで聞いてしまうものだが、
この発言は相手への一定の配慮がある。
相手の欲するものと自分が欲するものをうまく交換しよう(要するに会話しよう)と思っている。
一方通行ではない話しかけ方ができている。
おそらく作中で今迄ハルヒに話しかけていた男は皆、自分が言いたいことだけを言っていて、
ハルヒの興味に関心を持つことはなかったのだろう。
しかしキョンだけは違ったのでハルヒも彼に興味を持つようになった――そういうことなのだろう。