赤目無冠のぶろぐ

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帰ってきたニートの一日の作者。詳しくははじめにへ。

「『動物化するポストモダン』はどこがまちがっているか」はどこがまちがっているか

山川賢一さんによる「東浩紀『動物化するポストモダン』はどこがまちがっているか――データベース消費編」
という文章はどこがまちがっているか。
今回はそれについて語りたい。


・『エヴァ』論とノベルゲーム論の矛盾について~矛盾していないのでは?

 前半で山川さんは『エヴァ』論とノベルゲーム論の矛盾を(無理やり)見い出すことで、東さんの論を批判している。
 しかし、私が読む限り、この論は矛盾していない。

 彼は「つまり東の主張どおりなら、オタクたちは『エヴァ』を鑑賞するときは原作のストーリーを無視し、
 ノベルゲームをプレイするときは、原作のストーリーに没入する」
 と要約しているが、東さんはそんなことは一言も言っていない。
 東さんはあくまで「感情的な満足をもっとも効率よく達成してくれる萌え要素の方程式を求めている」と言っているだけである。
 つまり、現代のオタクは都合のよい萌えの型を動物的に求めているだけなので、いちいち大きな物語を求めていない。
 128ページを素直に読む限り、そう言いたいだけだと考えられる。
 したがって、物語を求めていないので、ここから「原作のストーリーに没入する」という要約を導くのは誤読に過ぎない。
 よって、東さんの『エヴァ』論とノベルゲーム論は矛盾していない。
 悪意のある誤読や要約であげ足をとっているだけなので、大勢は覆らない。

 それに、文章というものは流れ(文脈)があるので、
 離れた箇所を比較すると矛盾していているようにみえることは、本件に限らず、多々ある。
 山川さんの分析は流れを軽視して一つの事実に固執しすぎる傾向があり、アスペルガーのような見解が多い。

 さらに言えば、指摘している場所がたった一か所なので、主張が弱い。
 何百歩も譲ってこの主張が正しかったとしても、たった1か所の問題だけで、東さんの論がすべて崩れるとは思えない。
 どうせ書くなら、このような(山川さんにとって)矛盾(しているようにみえる場所)を数か所ぐらい見つけたうえで、
 徹底的に論駁した方がよかったのではなかろうか。


・しかし・・・

 批判したが、実は同意できる部分もある。具体的には以下の結論に強く共感する。

 「東の議論は二重にまちがっています。第一に、オタクは物語性や作家性を比較的重視する人々です。
  第二に、もしオタクがそれらを無視するようになったとしても、
  そうした消費は他のジャンルではもともとありふれていますから、ポストモダン化や「動物化」の証拠にはなりません。」

 これは私も鋭い指摘だと思う。

 もともとオタクは一つの細かいことに執着したうえで、きちんと分析・考察してしまう傾向があるので、
 東さんが主張するような「非物語性」や「データベース」を安易に導くのはそもそも限界がある。

 また、「もともとありふれている」という第二の指摘も鋭い。
 東さんはいつの時代にも存在し得る消費行動を特別扱いしているだけである。
 結局、東さんは自分の専門であるポストモダンに関する諸概念とオタクをこじつけているだけで、新しいことを言えていない。


・考えられる代替案 

 というわけで、山川さんの具体的な批判に関しては批判になっていないと思うが、結論そのものは有力だと思う。

 もし、どうしても東さんの論を批判したいのであれば、無理に矛盾を見い出すのではなく、
 以下のような論法による批判を増やしていった方が早い。

 例1

 たとえば、東さんは『エヴァ』のファンは大きな物語を求めていないと言っているが、本当か?
 多くのオタクがあれこれ語り始め、ちょっとした社会現象になったという点では、
 むしろ『エヴァ』ほど大きな物語が求められた作品はないのではなかろうか。
 もしオタクにとって物語が不要なものなら、誰もあれほどサードインパクトの条件や神話との関連などを深く考察しようとしないで、
 キャラクターの魅力のみを、好きなアイドルについて話すかのように、記号的に薄っぺらく語ったはずだ。
 しかし、残念ながら記号的に語れるほど『エヴァ』は簡単な作品とは言い難いものだった。
 そうなると『エヴァ』あたりから大きな物語が終焉したという論は怪しい。
 むしろ、『エヴァ』から大きな物語を真剣に求めるオタクの消費活動が本格的に始まったとも言えるはずだ。
 そうなると「逆の結論も出せるじゃん」という価値観に過ぎない問題と化すので、東さんの論は普遍性がないことになる。

 (そもそも東さんを代表とする多くの批評家たちは『エヴァ』を「よく分からない衒学的なもの」、
  「破綻しているもの」と見なすことで、1990年代の独特の世相と関連づけているようだが、
  本格的に考察しているサイトをいくつか見る限り、識者は物語をきちんと論理的に理解している。
  そうなると「生粋のオタクはやっぱり物語をちゃんと読めている。むしろ批評家こそちゃんと物語を読み直せ。」
  と言えることになる。)

 例2

 「データベースが~!」といろいろ言っているが、データベース的な消費は別に昔からあるものではなかろうか。
 たとえば、俳句や歌舞伎のような伝統芸能においても、「この言葉を使ったらこういう暗喩だ」とか、
 「この場所から登場する人はこういうものだ」といった、ある種のお約束がある。
 そしてそれに慣れてきた作り手や客たちは、そのうちにいちいちすべてを説明しなくても、
 そうした記号的な設定だけで話を瞬時に理解し、反射的に感動できるようになる。
 これはこれで、立派なデータベース的な消費ではなかろうか。

 そう考えると「昔からデータベース的な消費はある」という結論を導けるので、
 現代のみがポストモダンという特別な時代であるという東さんの論は簡単に否定できる。
 結局、東さんはいつの時代でも成立する概念を、現代だけ成立するかのように巧妙に語っているだけである。
 これで「ポストモダンとオタクは何の関連性もなく、情報が増えない」と反論できる。

 例1は非物語性を否定することで物語を見つめ直している。山川さんの「第一に~」に対応。
 反例を示すことで、作者の根本的な問題意識そのものが完全ではないことを悟らせる論法である。

 例2はいつの時代でも成立する論に過ぎないことを証明することで、
 作者のオリジナル性を否定している。これは山川さんの「第二に~」に対応。
 普遍性を示すことで、作者の論の特別性を否定する論法である。


どうせ批判するなら、重箱の隅をつつくのではなく、このような正攻法で批判した方が
説得的な真の「動ポモ批判」が誕生すると思うのだが、どうだろうか。


※なお、本件に限らず、こうした人文社会学の批評に関してはもともと学術的な問題が多い。
 簡単に言うと、「こじつけ」に過ぎない論があまりにも多すぎる。
 この問題に関しては、このブログの「社会学やら批評やらが嫌いな理由~その限界について」
 (http://akamemukan.hatenablog.com/entry/2013/10/22/155813)を読んで欲しい。